東京園芸資材販売 株式会社
 
◎園芸の歴史
肥料の移り変わり
講師:ハイポネックスジャパン テクニカルサポート室長 吉田健一



四大文明はすべて農耕文明から始まるとされています。

なぜ、農耕文明から人類の歴史は始まったのでしょうか?

これらの文明はすべて大河の流域で生まれました。
つまり、上流から運ばれてきた「沃土」によって農耕地が生まれ、人類の文明の誕生へとつながっていったからです。

ギリシャの歴史学者ヘロトドスは「エジプトはナイル川の賜物」と言う言葉を残しました。

ところで、この沃土とはどんなものなのでしょう?

「土」のもとは「岩石」です。

岩石が年月をかけて風化したとしても、

それは岩石の粒であり土にはなりません。

例えば、生物が存在しない「月面」では土は存在しないとされています。

岩石が土になるためには生物(微生物や植物)が不可欠です。

植物が生育する上で、つまり農耕を営む上で不可欠な窒素は、岩石には0.002%しか含まれず、一方で土にはその50倍に当たる0.1%も含まれています。

自然の摂理のなかでは、植物と微生物の働きで岩石が風化するプロセスにおいて窒素が蓄えられ、土へ変化していくことが考えられます。

つまり「沃土」とは肥料入りの土ということでなのです。

大河の流域では、毎年のように氾濫がおこり、肥料分を含む農耕地が自然の力で生まれたのです。

こうして、人類が生きていく上で必要な食料を産する場所が確保され、豊かな文明が誕生したのでした。

人類の文明は、自然が与えた「沃土(=肥料)」によってその第一歩を踏み出したのです。



「沃土」によって始まった農耕文明ですが、その次には「焼畑農業」が発祥しました。

簡単な農具しか持たない時代、農地を耕すことはとても難しいものでした。

そのような中、焼くことによって「農地」を確保する「焼畑農業」が行われるようになったのです。

この農法では、焼却する際に出る木や草の「灰」が、速効性の無機成分として土に供給されるという意図的な「施肥」となったのです。

現在でも「焼畑農業」は残っていますが、「二酸化炭素濃度」、「地球の温暖化」などの環境問題も生み出しています。



「肥料入りの土」から始まる人類の文明ですが、現代に目を向けると、日本では肥料取締法において「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学変化をもたらすことを目的として土地にほどこされるもの及び植物の栄養に供することを目的として植物にほどこされるものをいう」と定義されています。

我々が「肥料」とするものは「植物の生育のために人為的に施すことが肥料である」と位置付けていることになります。



中世のヨーロッパの輪作は「冬作小麦地」「夏作大麦地」「牧草地」「休閑地」のローテーションで行なわれました。

「牧草地」「休閑地」では家畜が放牧され、家畜の糞尿が自然に麦わらと堆肥化して、肥沃な土地を生み出していったことが想像できます。

その後、11世紀ころからイギリスで鉄器の製造が盛んになり、剣などの刃物の製造が行なわれると、その柄の部分に家畜や獣の骨が使用されるようになりました。そこで残った骨の削りかすなどを堆積したところ、植物が良く生育することがわかり、肥料としての「骨紛」が登場することになるのです。

この骨紛の登場が人類史上初の化学肥料「過リン酸石灰(過石)」を生み出すことにもなります。

水に溶けない骨紛を水溶性のリン酸に変えるために硫酸で処理し、「過リン酸石灰(過石)」が誕生しました。
1839年のことでした。



日本の肥料の歴史についての記載が、中学校の歴史教科書にどの程度あるのか調べてみると、古代から現代までの約300ページ余りの中に2か所しか見当たりませんでした。

その記載は「鎌倉・室町時代の農業の発達」に「刈り草や牛馬耕に使用する牛馬の糞を肥料に使うなどの工夫もなされた」というものと、「江戸時代の大開発の時代」に「肥料として干鰯(ほしか)や油粕を購入して用いるようになり、土地の生産力が高まった」というものです。

残念ながら、「人糞尿」に関する記載は見つかりませんでしたが、牛馬耕の牛馬の糞や干鰯だけでは肥料をすべてまかなうとは考えにくいですね。

さらに、「人糞尿」の歴史をひも解いてみましょう。



天皇の野菜類を生産する畑には、牛車の牛糞を使用していたと言われています。

一般に、家畜を持たない農民に家畜の糞が使用されていたとは考えにくく、農民の肥料の特定は難しいものの、糞が肥料になることは周知の事実で、一部では「人糞尿」が使用されていたと推測されます。

しかし、一部では、「人糞尿」が「田の神」を汚すということから川に流されていたとも言われています。このことがトイレのことを「厠(かわや)」と呼ぶようになった語源ともされています。



農村において人糞尿が肥料として用いられるようになったのは、鎌倉時代も末期とされています。

そこには、人糞尿を溜める「池」や「肥桶」が登場します(餓鬼草紙)。

当時の文献(慕帰絵詞)には、板を渡した程度の「汲み取り式便所」や、穴を掘って溜める便所の挿絵を見ることができます。

また、時代は遡りますが、「洛中洛外図」(1525年)には、畑に人糞尿を施している情景を見ることができます。

その情景は、農夫が片手に肥桶、片手に杓を持って、麦に液状の肥を施し、そばには、もう一つの肥桶と天秤棒があるというものです(岩井宏實氏の下肥雑記より)。



江戸時代の肥料について、まず、「農業全書」(宮崎安貞著)の肥料の項を抜粋してみると、下記のようなことが記載されています。

そこには、すでに現在に通じる驚くべき「肥料学」があります。

「土地を肥やすのは肥料の力に頼らなければできない」
「農家は計画的に肥料を蓄えることに心がけることが大事である」
「田畑を肥やすものとして、苗肥(緑肥)、草肥(堆肥)、灰肥(草木灰)、泥肥(池の底などに溜まった土)の
  4種類がある」
「草肥を良く腐らせてものを細かく切り返し、
 人糞尿をかけて、天日乾燥させたものは畑の元肥に良く効く」
「土と肥料に関しては、黒土、赤土には油粕、砂地には干鰯、湿気があって粘り気味の土には綿実粕が良い。
  土質によってそれなりの工夫をしなければならない」


この時代、主要な商品肥料として取引されたものに「下肥(人糞尿)」、「植物油粕」、「魚肥」があり、「下肥(人糞尿)」に関しては、宣教師ルイス・フロイドが「我々は糞尿を運び去る人に金を払う。

日本では、それを買い、その代償に米と金とを払う」と書き記している。

ここから、人糞尿を民家などから買い取り、農家に販売する卸業があったということがわかります。

商品肥料として取引された「下肥(人糞尿)」は、肥舟と呼ばれる舟で運搬されました。

江戸では江戸川を行き来する「葛西の肥舟」が有名でした。

「下肥(人糞尿)」の水田での使用量は一反につき20荷(肥桶1桶が1荷で、「下肥(人糞尿)」を運ぶ舟(肥舟)一艘で50荷が運べる)を入れると米が良くできるとされ、1町歩の水田を作るには200荷の肥桶が必要でした。

価格も時期により異なり、田植え準備のある3月から6月が高く、7月は極端に安くなり、肥舟の組合で価格協定が結ばれていました。1両を仮に5万円と考えると、約1ヘクタールの水田(1町歩は99.17アール)では、「下肥(人糞尿)」が約20万円で農家に売られたことになります。



江戸時代の文献「百姓伝記」には「下肥(人糞尿)」の品質に関して、「いつもご馳走を食べ、魚を食べている人の糞尿は作物によく効く、これに反して粗食の人のものは効果が少ないものであるから、繁盛している土地の糞尿を取って肥料としている村は、穀物、野菜がよくできる」と記載されています。



時代が進んでも、肥料は「下肥(人糞尿)」、「植物油粕」、「魚肥」が主流であり、特に、輸送が容易な「植物油粕」、「魚肥」へシフトしていきました。しかし、「葛西の肥舟」は昭和10年代まで続いたと文献には記されています。

興味深い資料として明治44年に発行された「和洋草花と肥料」に日本人と外国人の下肥の成分比較があります。

外国人の下肥は窒素、リン酸が高く、日本人は加里がやや高く、さらに食塩含有量が多い傾向を示しています。

これは、食生活の相違、つまり、肉食と穀物食(漬物を塩分で補う)の相違によるものなのです。





明治時代に発刊された「花卉肥培論」(明治41年)、「和洋草花と肥料」(明治44年)に見てみると、現在でも十分に通用する肥培技術が紹介されていて驚くばかりです。

元肥、追肥に関しては、「元肥としては主として遅効性の肥料を施して、肥効を永続せしめ、その後の花卉の発育状況に従いて、速効肥料を水溶液となし希釈して施すべし」、「元肥のリン酸の効能は幼根の発育を促進するの効あればなり」と記載されています(「花卉肥培論」)。

微量要素に関しても「鉄を施すと速やかに葉は深緑色を呈してきて花は一層色澤を帯びてくる」、「マンガンの効能は主として植物の生理的作用をおおいに促進してその生育を良好ならしむる __ 特に草花に対しては色々の効能を持ちうる」と記載され、鉄についての記述は、はまさに現在実施されている葉面散布の基本を解説しているのです(「和洋草花と肥料」)。

■植物別の各論を下記に抜粋してみます

  パンジー「肥沃の壌土地に栽へ。油粕汁の薄きを二、三回追施す。鉢栽には少し腐植土と砂とを混ず」
  シクラメン「腐葉土 四、泥炭土 四、馬糞 一、砂一、の混合土で栽へ。油粕の薄汁を2回追施す(鉢)」
  キク「池又は田の土を寒中に取り、之に人糞尿を注ぎて凍結させたるを、乾燥粉砕篩過したる土で栽へ。
    元肥として醗酵後の油粕粉末を一掴み施し、其の後、九月末迄薄き人糞尿を度々施す」


このように、肥料の古代からの道のりはシンプルでありながら、人類を支える食料を生み出すものとして歩んできたものでした。

肥料は江戸時代から「朝顔市」「ホウズキ市」に代表されるような趣味として花卉の分野にも広がっていきました。

さらに、明治時代に肥料学が確立され、現在の家庭園芸へと流れていくのです。










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